解雇を避ける代わりに正社員の昇給を抑制。非正規社員の賃金だけが上昇するのは、日本の雇用環境によるところが大きい。日本企業は終身雇用と年功序列を大前提としており、正社員に支払う賃金は事実上固定費化している。このため市場メカニズムによる価格調整は、昇給を抑制するといった消極的な形でしか行われない。一方、派遣社員の料金やパートタイム労働者の賃金は市場メカニズムによって決まるので、供給がタイトになれば、当然、価格は上昇することになる。
企業にしてみれば、新卒で雇った社員は、基本的に定年まで抱えておく必要がある。しかも、年功序列の賃金体系となっており、勤続年数が長い社員ほど給料が高い。
このため日本企業は常に人件費が過剰になる傾向があり、経営側としてはできるだけ賃金は抑制する方向にならざるを得ない。しかも、よほどの事情がない限り解雇は
できないので、正社員の人数もできる限り少なくする必要がある。多くの日本企業では、正社員の給与は低く抑え、好景気の時には長時間残業で対処することによって、不況時の解雇を避けるというのが基本原則になっている。最近は、働き方改革で残業時間が減る傾向にあるが、それでも日本企業の残業時間は長い。長時間残業が横行していることには上記のような構造的要因がある。最近ではこれに人手不足という要因が加わり、人件費が急増している。企業の利益を維持するためには、正社員の昇給を抑制するほかない。政府による度重なる要にもかかわらず、経済界が賃上げに消極的なのはこうした理由からだ。正社員化した方が人件費が安く済むことも非正規社員のコスト増加は、これまでの動きはとは逆方向のベクトルも生み出している。日本企業の多くは人件費の削減を目的として、社員の非正規化を進めてきた。しかし最近では、逆に非正規社員を正社員に転換する企業が増えているのだ。カード会社のクレディセゾンは、全従業員の半分以上にあたる2200人の非正規社員を今年9月から正社員化した。新規に正社員になった社員には賞与が支給されるほか、確定拠出年金も使えるなど、以前から正社員だった社員との格差はほぼなくなったという。正社員と非正規社員の待遇格差を考えると、労働者にとってこうした動きは歓迎すべきことといえる。同社以外にも非正規社員の正社員化を進める企業は増えているのだが、必ずしも手放しで喜べる状況とはいえない。企業の中には、正社員に転換した方が最終的にコストが安くなると判断し、人件費の削減を目的に正社員への転換を進めるケースがあるからだ。働き方改革によって残業がやりにくくなっているとはいえ、正社員に長時間残業を要請するのはそれほど難しいことではない。企業によっては正社員化に際して基本給を低く設定したり、その後の昇給を抑制するところもある。派遣社員やパートタイム労働者の時給が上昇している局面では、場合によっては全員を正社員にしておいた方が人件費が安くなる。非正規社員のコスト増加は人手不足という構造的要因によるものなので、長期間にわたって継続する可能性が高い。正社員の雇用環境が変わらない限り、正社員の給与を抑制するという流れも変わらないことになる。
賃上げ分は残業代の抑制で相殺されてしまう来年の春闘をめぐって連合は4%の賃上げを求める方針を打ち出している。だが企業としては、正社員の人件費しかコストを抑制する材料がなく、できるだけ賃上げには応じたくないというのがホンネである。安倍首相が3%の賃上げを強く要請するなど、企業に対する包囲網は狭まっているので、企業側もある程度までは要望を受け入れるかもしれない。だが、仮に3%程度の賃上げが行われたとしても、正社員の年収は増えない可能性がい。なぜなら残業代の減少が賃金の上昇を相殺してしまうからである。政府は企業に対して長時間残業を抑制するよう求めており、罰則付きで残業時間の上限規制を導入する方針を固めている。大和総研の試算によると、この上限規制が導入された場合、日本全体で8兆5000億円の賃金が抑制されるという。日本における雇用者報酬の総額は約260兆円なので、8.5兆円という金額は日本の労働者が受け取る賃金全体の約3.3%に相当する。つまり、残業の上限規制が導入された場合、労働者の年収は3.3%減ってしまうのだ。仮に春闘で労使が合意に達し、3%の賃上げが実現しても、最終的には元の水準に戻るだけで現実の年収は増えないことになる。労働者にとっては、残業が減っても年収が維持されるのは喜ぶべきことだろう。年収が維持されるのであれば、余った時間を余暇への消費に使うといった選択肢も出てくる。だが年収の絶対値は変わらないので、物価が上昇すれば、その分だけ実質賃金は減ってしまう。こうした状況に対する根本的な解決策は、一般論としては雇用の流動化ということになる。雇用を流動化すれば、転職を迫られる人が増えるものの、賃金は一気に上昇するだろう。だが雇用維持を前提にした今のシステムが継続するのであれば、当分の間、実質的な昇給は実現しないと考えた方がよい。